【81】あるカトリック・ファミリーの移住史(1)

イワシから世界を見てみよう、とイワシを追いかけていたら、長崎のカトリック・コミュニティに出会った。

 

たとえば、イワシ漁や煮干し加工の中心地の一つである長崎県佐世保市神崎(こうざき)集落はほとんどの住民がカトリック信者だし、かつてイワシ産業の中心地の一つだった五島列島・中通島(なかどおりじま)も、イワシ漁にたずさわる漁師の多くがカトリック信者だった(鎌田慧「まき網盛衰史・長崎県奈良尾町」に、その様子が描かれている)。

ごく大雑把に言うとこういうことだ。隠れキリシタン(潜伏キリシタン)、そしてカトリック信者は、長い歴史の中で周辺部に置かれ、古くは迫害を逃れ、また、生活の安定を求めて、移住を繰り返してきた。新しい土地では、土地をもつのが難しいので、労働者として働くか、海に出るしかない。そこでイワシ漁だ。イワシ漁は、明治以降、長崎各地で現金収入の重要な手段になっていた。

 

イワシ漁にたずさわる、たずさわらないは別として、長崎のカトリック・コミュニティは移動を繰り返してきた。叶堂隆三著『カトリック信徒の移動とコミュニティの形成』は、その詳細を明らかにした労作だ。この本を読んでいる中で、僕は、一九〇〇(明治三三)年ごろ「滝下精蔵」らが五島から平戸島に移住した、という記述を見つけた。「滝下」は僕の妻、実千代さんの旧姓だ。その父、つまり僕の義父は、平戸出身の敬虔なカトリック信者で東京在住(若いころに平戸から東京に単身移住した)。「滝下精蔵」の話は、かねて「先祖は隠れキリシタンで、五島列島から来たらしい」と言っていた義父の話とピタリと一致する。滝下精蔵の移住先とされている平戸の地区は、義父の出身地そのものだった。「滝下精蔵」は滝下家の先祖と考えてまず間違いない。

 

思わぬ出会い方をしてしまった僕は、滝下家の歴史を追いかけてみることになった。それは、思わぬ広がりを持った移住の歴史だった。

 

江戸後期の一七九七(寛政九)年、現在の長崎市外海(そとめ)地方(遠藤周作『沈黙』の舞台だ)に領地を持っていた大村藩が、潜伏キリシタンたち一〇八名を五島列島に開拓移住させた。以降、三〇〇〇人ほどのキリシタンが五島に移住したと言われる。未開発の土地を開墾させるために五島藩が大村藩に相談して決めたものだ。大村藩側からすれば、ある種の棄民政策だったようだ。

 

おそらく、滝下家の先祖もその中にいた。滝下家が移住したのは五島列島・中通島の鯛ノ浦という地区で、外海地方からの移住者が多い土地と伝えられている。

 

明治に入り、しかしまだキリシタン弾圧がまだ続いていたころ、その鯛ノ浦でのキリシタンの中心人物だったとされるのが、先ほどの滝下精蔵だった。精蔵を初めとする鯛ノ浦のキリシタンたちは、隣の福江島の役人による弾圧に遭う。「縛ったまま海へ投げ入れ、足に綱をつけて船の艫(とも)に結び、五丁櫓を立てて逆漕ぎに漕ぎ廻るやら、散々な目に遭」った。役人は、とくに「精蔵だけを(中略)引き出し、再び算木にも乗せれば、坂漕ぎにも遭わした。息が切れると引上げて水を吐かせ、身を暖めたり、薬を飲ませたりして蘇生させ、蘇生すると再び海に突込んで漕ぎ廻ると云う様に、随分残酷なことをやった」(『五島キリシタン史』)。

 

キリスト教が解禁されるのがその後の一八七四(明治六)年。鯛ノ浦は、島のカトリック教会の中心地の一つになるが、滝下家はその後再移住し、最後は北海道に移住する。その話は次回に。(つづく)

 

(資料:文中に挙げたもののほか、『五島編年史』、『有川町郷土誌』一九二〇年版、一九七二年版、一九九三年版、『鯛之浦修道院一〇〇年の歩み』、『鯛ノ浦小教区史』、鎌田慧『日本列島を往く(3)海に生きるひとびと』他)

 

(さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』2019年12月号掲載)