【90】ややこしい人たちと社会について

エリザベス・ストラウトのピューリッツァー賞受賞小説『オリーヴ・キタリッジの生活』(早川書房)には、米国の田舎町の、ごく普通の、とてもややこしい人たちが、数多く登場する。オリーブという元高校教師の主人公も、その中の一人として、皮肉屋で、強情で、しかし悲しみを背負った人生を送っている。そんな、なにかしらの困難と悲しみと喜びを背負った人びとが次々に登場し、複数の物語が紡がれるこの小説は、米国で広く人気を博した。

 

この小説に接したとき、最初、登場人物たちの「ややこしさ」「しょうもなさ」が、我が身を見せられるようで、読むのが少しつらかった。しかし読み進めるうちに、一人ひとりが、かけがえのない、いとおしいものとして読めてきた。

人びとの「ややこしさ」は、人びとの中の複雑さ、重層性とも言ってよいだろう。思うに、私がやってきた社会学という学問は、そうした一人ひとりの複雑さに分け入りながら複雑な社会について考える、という方法を使う。個人を、社会の複雑さが反映されたものとして見る。あるいは、個人の複雑さと社会の複雑さが相互に関係しながら存在しあっている、と見る。だから、社会学の調査は、個人に焦点を当ててそのライフヒストリーを聞き取るところから始まることが結構多い。

 

個人のインタビューから見ようとするのは、「事実」というよりは、一人ひとりが見ている「世界」(社会学者は「意味世界」と呼ぶ)だ。見ている「世界」は、本当に一人ひとり違っている。そして、聞く方もまた違う「世界」を見ているのだから、正直、相手の「意味世界」をうまくつかめるかどうかは、わからない。だから、相手の意味世界を客観的に把握するというより、こちらの意味と相手の意味をぶつけたり、融合させたりしながら、意味を作っていく、という表現の方が、実際の感じに近い。対話をしながら、社会を共同で再構成しつつ認識し、そこから、ああしよう、こうしよう、と考える認識方法であり、実践方法である。

 

そもそも社会そのものが、意味で構成されている。言語を媒介に何らかの意味でとらえる人間という存在がいて、その意味を媒介にお互いに関係をもちあうようなしくみが社会だ。社会学者だって、その意味の連鎖の中に生きているのだから、それを外から眺めようなんてことはできない。社会学者は、対話の中から、社会認識を更新しつづける。実のところ、分断がつづく今日の世界で、この認識方法はますます重要性を増している、と思う。

 

小説『オリーヴ・キタリッジの生活』には、その十一年後に出された『オリーブ・キタリッジ、ふたたび』という続編がある。その続編の最後で、主人公オリーブ・キタリッジは、二人目の夫も亡くし、孤独の中を生きる。その中で「大統領になったオレンジ色の髪の怪人」を支持する訪問介護士や、ソマリ人移民の訪問介護士らと出会い、オリーブは、彼女たちとの対話の中で、自分の人生をふりかえり、また、社会認識を更新するのだった。