【89】山鹿順子さんのこと

若いころに東京でお世話になった山鹿順子(ふりがな/やまかじゅんこ)さんが八五歳で亡くなってから、一年経つ。山鹿順子さんは、初期のころからアジア太平洋資料センター(PARC)にかかわっていた一人で、そののち翻訳会社「リングァ・ギルド」を立ち上げ、晩年は横須賀で反戦運動にかかわっていた、という人だ。

 

一九三五年に朝鮮半島で生まれた山鹿さんは、戦争が始まる前に日本に引揚げ、戦後、障害児の施設で働いた。一九六〇年代には、ソーシャルワーカーのための国際プログラムに参加するためアメリカに渡り、帰国後ベトナム反戦運動にかかわったあと、一九七一年に再び渡米して大学院で社会福祉を学ぶ。再び帰国したころ、生まれたばかりのアジア太平洋資料センター(PARC)にかかわりはじめた。さらに、漁民研究会、エビ研究会(鶴見良行さん、村井吉敬さんら)などにもかかわり、そして、僕が山鹿さんに出会う「自主講座」のメンバーでもあった。

出会ってしばらく経ってから、僕は、山鹿さんから鶴見良行さんに引き合わされ、エビ研究会の活動に参加することになった。山鹿さんに促されて、タイで開かれたNGOの国際会議に参加したこともあった。

 

山鹿さんは当時「アメリカ帰りの市民運動家」として、市民運動の現場で通訳や翻訳を一手に引き受けていた。それがやがて山鹿さんの「仕事」にもなり、翻訳会社「リングァ・ギルド」の設立(一九八三年)となった。

 

僕は二〇代を自主講座での反核・反原発運動と鶴見良行さんらとの共同研究に明け暮れていて、その間、山鹿さんにはずいぶん助けてもらった。何か具体的に助けてもらったというより、親と子ほどの歳の違う山鹿さんに精神的に支えてもらった部分が大きい。山鹿さんは、市民運動の中でも、あまり表に出る方ではなく、黒子として動く方で、また、僕のような若い人間を支える役割でもあったように思う。


山鹿さんの若いころについて、僕はあまりちゃんと聞く機会がなかったのだが、ベトナム反戦運動の中で米軍の良心的脱走兵の支援運動にかかわっていたことを、山鹿さんが亡くなってから知った。知る人ぞ知る「ジャテック」だ。山鹿さんは、ほとんどがお互い知らないジャテックの支援者ネットワークの中で、脱走米兵の「来栖君」と「神田君」(もちろん偽名)の世話をしたのだという。「集団疎開でのいじめや、戦争による大人の態度に人間不信と自己否定による、十代の半ばから入り込んだ人生の暗いトンネルからいまだ抜け出せずにあがいていたときでした。そんな自分に反して、二十才という若さで戦争を拒否し、(中略)軍隊から脱走し、(中略)ついに自由を得て文字通り空を飛んでいった来栖君を見送ったときの感激は、今でも忘れられません」(非核市民宣言運動・ヨコスカ『たより』二六二号)。

 

山鹿さんは、晩年熱心にかかわった横須賀での反戦運動では、米兵たちに直接語りかけるという運動を担った。反戦月例デモには生涯出つづけた。

 

参考:「山鹿さんを記憶する」http://linguaguild.com/yamaka/