【82】あるカトリック・ファミリーの移住史(2)

僕の妻の祖先、滝下家は、隠れキリシタンとして、江戸後期に、長崎の外海(そとめ)地方から五島列島の中通(なかどおり)島・鯛ノ浦に移住し、そこで明治を迎えた。その一人、滝下精蔵は、明治初期、海に投げ入れられるやら、算木(四角い材木を並べたもの)にも乗せられるやら、ひどい拷問と弾圧を食らう。(と、ここまでは前号に書いた)

精蔵らは生き延び、一八七四(明治六)年のキリスト教解禁後は、鯛ノ浦にもフランス人神父が派遣された。しかし、その神父とともに弟の滝下市蔵(滝造との表記も)が船で遭難するという悲劇も経験する。カトリック教徒の間で語り継がれているところによると、それは単なる遭難ではなく、通りがかった漁船に助けを求めたところ、全員撲殺され、海に投げ込まれた、という。真偽は分からないが、その殉教の碑が今日、世界遺産の頭ケ島教会(中通島)に置かれている。

 

そして明治後期の一九〇〇年ごろ、滝下精蔵は一族もろとも平戸島に移住する。なぜこのころ精蔵らが平戸に移住したのかはよくわからない。しかし、長崎のカトリック信者たちが移住することは当時頻繁に行われていた。叶堂隆三『カトリック信徒の移動とコミュニティ形成』によると、この時期、人口過剰を避けるために、神父らの主導によって、五島などから都市近郊や炭鉱、あるいは農業開拓地への移住が進められたという。

 

しかし、滝下家の移住はそれで終わらない。昭和の初期、滝下家の一部(義父の祖父とその弟およびその家族)は、今度は北海道に移住するのである(義父の父は平戸に残った)。

 

標茶町虹別地区は、一九二九(昭和四)年からの「許可移民」によって大々的に「開拓」された地区である。「許可移民」とは、審査をして許可を出した移住者に補助金を出して北海道移民を促進する政府の政策で、その主要な移住先の一つが虹別だった。虹別への許可移民第一陣三九〇戸の中に、義父の祖父、滝下徳松の名前が見られる。徳松は精蔵の弟又吉の子どもに当たる。全国からの入植者のうち、長崎からは徳松とその弟の滝下愛治郞の家族のみで、単独の移民だったことがわかる(多かったのは福島や山形からの移民)。

 

平戸に移ってからまだ三〇年も経っていないこの時期に、なぜ北海道に渡ったのかはよくわからない。しかし、叶堂隆三前著によると、やはりこの時期、もう一度長崎カトリックの移住、とくに長崎県外へ移住の波があったようだ。さらにこの時期の移住は、国の開拓政策が大きくからんでいるのも特長だ。滝下家の場合も、「許可移民」制度を使っての北海道移住だった。

 

虹別の「許可移民」については、当時の新聞も含めて、資料が比較的多い。滝下家についての詳しい記述はないが、他の移民たちの記録によると、たいへん厳しい移民だったことがわかる。とくに移住直後の昭和六、七年と冷害が続き、多くが虹別を離れた。滝下家も、時期ははっきりわからないが、その後虹別を離れ、釧路などに移住している。

 

長崎県外海地方の潜伏キリシタン時代から始まった滝下家の移住は、五島列島、平戸島、そして北海道標茶町虹別、と移住を繰り返してきた。それは、長崎カトリックの移住の歴史そのものでもあった。

 

(資料:前号で挙げたもののほか、『平戸教会の礎』、『虹別五十年』、『標茶町史』他)

 

さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』2020年4月号掲載)