【80】民主主義としての「聞く」

 

 三十年くらいにわたる「研究」生活で、何をやって来たのかなあ、と考えたとき、自信をもって言える、というべきか、確実に言えることは、ずっと「聞く」ことをやってきたということだ。数えたことはないけど、延べ人数で言うと五百人は超えていると思う。

 こんなに人の人生を聞く人生になるとは思っても見なかった。それだけ続けてきたのは、ひとえに「聞く」ことのおもしろさであり、聞くことの「手応え」だ。

 自身が日々積み重ねるいとなみの中で、何か「手応え」のあるものを一つ挙げろと言われれば、それが「聞く」ことなのだ。 

 正直言って、僕はそんなにいい聞き手ではない。もちろん「聞く」ときの大事な姿勢、つまり、相手の話を否定しないとか、相手の意味世界への想像力を働かせながら聞くとか、そいういうことはある程度できていると思うが、でもせっかちなので、すぐ相手の話をまとめようとしたり、なるべく多くの情報を得ようと相手の話に質問をかぶせてしまったりすることも少なくないように思う。

 それでもやはり、聞くことには「手応え」がある。聞いた結果何かがわかるとか、聞いたデータをもとに理論を組み立てるとか政策を打ち立てるとか、そういうことももちろん大事なのだが、しかし、そのことよりもむしろ、「聞く」という いとなみ自体の「確かさ」みたいなものこそが最後に残る気がする。

 この、聞くことの「確かさ」は、とても多面的で、言葉にしにくいところがあるのだけれど、二つほど理屈を考えたみたい。

 一つは、社会理解ということ。「聞く」といういとなみは、世界がどうなっていて、どうすればよいのか、という僕らの思考に直結している。「聞く」ことは、僕らの世界像を形成し、僕らの未来像をつくりだす。それはゆっくりとした営みだし、きれいに図式化された世界像ではないかもしれないが、しかし、確かさをともなった世界像だ。

 もう一つは、民主主義ということ。民主主義とはつまるところ合意形成だ。多様な価値、多様な利害がある中で、「合意」のプロセスが最も大事で、それをもとめて、議会、デモ、ワークショップなど、さまざまなツール(とあえて言おう)が開発されてきた。しかし、もう一度原点に戻ればそれは「聞く」といういとなみになる。聞き取り調査やそれに類することをした経験のある人なら気づくことだが、「聞く」いとなみは、相手の経験や感情、思いとこちらの経験や感情、思いが、ぶつかったり、融合したりしながら、何かしらの新しい物語、つまりは合意を生みだしていく行為だ。

 

 鶴見良行さんは、「イデオロギーだけでつながるのでなく、ゆっくりと歩いて自分を変えていくのである。歩かない連帯を信用しない」(『ココス島奇譚』)と書いた。それとほぼ同じ意味合いで僕は、「聞くいとなみのない民主主義は信用しない」と言いたい。