【79】イワシと特攻兵器とユリ

 イワシから世界が見えないか、と考え、あちこちのイワシ漁をめぐっている。

 三年前、長崎県雲仙市の南串山で、大きなイワシ漁を営む竹下康徳さんのおうちにうかがったとき、しかし最初にされたのは、戦争の話だった。

 「沖縄から来ていた金城さんという方が、他の予科練(海軍飛行予科練習生)の人たちと一緒に、うちに泊まっていました。私は小学校六年生でしたので、一緒の部屋で寝ていたのです」

 一緒に聞いた中に、私の元学生で沖縄出身の金城達也さんがいたので、竹下さんは、それでつい予科練の金城さんを思い出したのだった。

 「その人たちは、震洋の格納庫を掘っていたのです」。震洋とは、日本軍が開発した特攻兵器。ベニアで作ったボートの艇首部に爆薬を装備し、体当たり攻撃するものだ。その格納庫が南串山に作られた。掘削作業は危険な作業で、地元住民もかり出され、死者も多く出たようだ。

 もちろん私たちが聞きたかったのは、イワシ漁の話だ。しかし、戦争の話も、ぜひ聞きたい。それで、竹下さんのお兄さんが原爆で亡くなった話(お兄さんが学生だった長崎医科大学は爆心地にたいへん近く、ほとんどが即死。山田洋次監督映画「母と暮らせば」がその様子を描いている)などをひとしきり聞いたあと、ようやくイワシの話を聞くことになった。

 しかしイワシの話を聞き始めると、竹下さんは、今度はユリの話をし始めた。

 「うちは戦前、ユリ根の輸出業をやっていました。農家が木子(きご)(地中で球根のまわりに発生する小球根)を三年ほど栽培したものを買い、商社を通してアメリカに輸出していたのです。しかし、戦争の時に経済封鎖を受けて輸出が止まってしまいました。ユリ根は神戸あたりの倉庫に出したままで、輸出できず、すべてがだめになりました。うちは問屋業だったため、ユリ根をあずかった農家に対する補償金を支払わなければなりません。そのため父は、自分の土地を売って、それを農家への補償金にあてました。こんな仕事は子どもに受け継がせられないと考え、父は戦後、イワシの巻き網を始めたのです。それを私が継ぎました」

 ここでようやくイワシの話にたどり着く。

 でもユリ根の話も気になるので、少し調べてみた。すると、おもしろいことが分かってくる。日本のユリは一九世紀以来欧米で観賞用として人気であり、ユリ根は明治初期よりすでに輸出されていた。戦前には、主要輸出商品の一つとして、全国的に栽培されていた、という。長崎だけの話ではなかったのだ。

 竹下さんには、その後合計五回(合わせると十時間)話を聞き、現在それを聞き書きとしてまとめているところ。それにしても、たった一人の人の話からでも、歴史は実に立体的によみがえる。